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成熟する日本のゲーム開発者コミュニティ・・・CEDECとDiGRA JAPANとIGDA日本、3者の方向性と役割の違いをキーマン三人が語る

長く閉鎖的で横の繋がりに欠けると言われてきた日本のゲーム業界ですが、ここ数年で大きく状況が変化してきました。今や毎週さまざまなセミナーや勉強会が開催されています。その中でも歴史が古い団体がCEDEC、DiGRA JAPAN、そしてIGDA日本です。

ゲームビジネス 人材
左から小野氏、斎藤氏、遠藤氏
  • 左から小野氏、斎藤氏、遠藤氏
  • スクウェア・エニックス テクノロジー推進部に所属する三宅陽一郎氏
  • バンダイナムコスタジオに所属し、CEDECの実行委員会委員長の斎藤直宏氏
  • モバイル&ゲームスタジオ会長で日本デジタルゲーム学会で研究委員会の委員長を務める遠藤雅伸氏。『ゼビウス』の生みの親としても知られる
  • IGDA日本代表の小野憲史氏。フリージャーナリスト。
長く閉鎖的で横の繋がりに欠けると言われてきた日本のゲーム業界ですが、ここ数年で大きく状況が変化してきました。今やウェブ/ソーシャルゲーム業界を含めれば、毎週さまざまなセミナーや勉強会が開催されています。その中でも歴史が古い団体がCEDEC、DiGRA JAPAN、そしてIGDA日本です。

しかし、それだけに関係者や活動内容が重複している部分もあるため、一見すると違いがわかりにくい面もあります。そこで三団体すべてに在籍し、重要な役割を担っているスクウェア・エニックスの三宅陽一郎氏の呼びかけで、キーマン三人による鼎談が行われることになりました。

もっとも話はそれだけに留まらず、さまざまなトピックに飛び火し・・・。三者三様の価値観が見え隠れする、ユニークな業界鼎談をお楽しみください。

■知ってるようで知らない三団体の成り立ち

―――今日はよろしくお願いします。はじめにお三方の自己紹介をお願いします。

斎藤: コンピューターエンターテイメントデベロッパーズカンファレンス(CEDEC)委員長でバンダイナムコスタジオの斎藤直宏です。

遠藤: 日本デジタルゲーム学会(DiGRA JAPAN)で研究委員会の委員長をつとめている、モバイルゲームスタジオの遠藤雅伸です。CEDECでも運営委員会のメンバーで、ゲームデザイン部門の担当をしています。

小野: 国際ゲーム開発者協会日本(IGDA日本)の代表で、ゲームジャーナリストの小野憲史です。DiGRA JAPANでもゲームメディア研究会でお手伝いをしています。

―――ありがとうございます。最後になりましたが、司会をつとめますスクウェア・エニックスの三宅陽一郎です。 CEDECではアドバイザリーボードの一員、DiGRA JAPANでは研究委員会のメンバー、IGDA日本でもAI専門部会の世話人を務めています。

三団体は近年、非常にアクティブに活動されている一方で、外部から違いが見えにくいという指摘をいただく機会も増えてきました。そこで本日は各団体の特徴や方向性の違いなどについて、多くの方に知ってもらうために、鼎談を企画させていただきました。

でははじめに、成立の古い順から、団体の成り立ちについて教えてください。

斎藤: 実はCEDECがこの中では、一番古いんですよね。といっても僕も途中から運営に参加したので、設立当初のことは詳しくないんですが。

第1回目のCEDECは1999年に東京ゲームショウで開催されました。当時は家庭用ゲーム機だとドリームキャストがローンチした頃で、WindowsやDirectXなど、欧米圏を中心にゲーム開発技術が飛躍的に向上していき、GDCを中心に技術の交流も進んでいました。その一方で日本のゲーム業界は会社単位で技術がクロースドになっていて、現場の開発者としてはフラストレーションが高まっていました。

そこで日本でも技術の交流と、コミュニティの形成のために、カンファレンスを開催しないと駄目だよね、という問題意識で始まったと伺っています。

―――斎藤さんは、いつからCEDECの運営に係わられたんですか?

斎藤: 最初は一介の聴講者として、2002年から参加しました。その後、東大でDiGRA 2007と同時開催されたCEDEC2007に、パネラーとして参加しました。その翌年、CEDEC2008から運営に参加しています。当時はビジュアルアートのまとめ役で、翌年のCEDEC2009でビジュアルアートとゲームデザインのまとめ役を担当しました。ただ、両方を兼務するのは大変だし、ゲームデザインは僕の専門でもないので、2010年から遠藤さんにゲームデザインのまとめ役をお願いすることになりました。

―――では次に、IGDA日本の小野さんにお願いします。

小野: IGDA日本はアメリカに本部を持つIGDAの日本支部として、2002年からスタートしています。もともと前代表(現:副代表)の新清士が2000年、GDCに自費参加して感銘を受け、2002年に東京でGDC報告会を開催したことから、活動がスタートしました。僕も新に誘われて2003年からGDCに参加しています。もっとも当時はIGDA東京と言っていましたね。これがIGDA日本と名称を変えたのが2004年です。2011年に僕が第二代目の代表となり、年内目標でNPOの登記申請を進めています。

―――CEDECでも協力をされていますね。

小野: はい。CEDECでは2002年からラウンドテーブルがスタートしましたが、モデレータとして協力して欲しいと言われて、2003年から新が参加しました。当時はゲーム業界が閉鎖的で、ラウンドテーブルの数を増やしたいが、適任者がいなかったんですね。そこで僕にも声がかかりまして、2004年から参加しています。

このほか、新や副代表の板垣貴幸が、CEDECの運営に直接協力させていただいた時期もあります(現:CEDECアラムナイ)。春のGDC報告会と、秋のCEDEC協力は、IGDA日本の中でも大きなイベントとして、現在まで続いています。

―――最後にDiGRA JAPANについてお願いします。

遠藤: DiGRA JAPANには当初、日本のゲーム研究の場を作ることと、国際学会のDiGRAを日本で開催するための受け皿を作りたいという、大きく二つの目的があって。2006年に東京大学の馬場章先生が提唱されて、それを契機に設立されました。さまざまな方のご尽力を経て、2007年にはDiGRAの東京大会を東京大学で開催したんだよね。

小野: ちょうどCEDEC2007も東大で同時開催されて、盛り上がりましたね。

遠藤: そうそう。ただ、当初は学会誌を発行することと、ゲームの講演会を公開講座という形で行うことが中心で、学会としての研究活動自体は、必ずしも活発ではなかったんだ。それが2010年にはじめて年次総会を開催し、2011年4月に「日本学術会議協力学術研究団体」の指定も受けて、やっと学会らしくなってきたなと。今年夏には東京で夏期研究発表大会も開催したし、今後も夏に東京で研究大会、冬に各都市で年次大会を開催していく予定です。

―――遠藤さんは設立時から理事として参加されていますね。

遠藤: そうですね。第2期(2008年-)からDiGRA JAPANに編集委員会、広報委員会、研究委員会という3つの委員会ができて、その中の研究委員会委員長になりました。編集委員会は学会誌の編集、広報委員会はウェブページなどの運営、研究委員会は研究大会などの運営や推進を担当していて。特に京都で開催された2011年次大会から、学会の性格が一層明確になり、おもしろい研究内容がどんどん見られるようになってきたんだよね。

■プロ、研究者、そして「ゲーム開発者」というアイデンティティ
《土本学》
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